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東京地方裁判所 昭和46年(ワ)8237号 判決 1976年4月15日

原告 中野誠三

<ほか五名>

右六名訴訟代理人弁護士 松井一彦

同 片桐章典

被告 金沢兼吉

被告 金沢すゑの

右両名訴訟代理人弁護士 宮崎佐一郎

主文

一  被告らは各自原告中野誠三に対し金八六万六〇〇〇円、同大浦良雄に対し金一六〇万円、同高橋義雄に対し金一一八万八〇〇〇円、同和田厚に対し金一二四万二〇〇〇円、同本間米正に対し金六二万円、同伊藤旦に対し金三〇万円とこれらに対する昭和四六年一〇月三日から支払ずみまで年五分の金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は五分しその一を原告らの、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自原告中野誠三(以下原告中野という。)に対し金一〇五万五四五〇円、同大浦良雄(以下原告大浦という。)に対し金一九五万二五五〇円、同高橋義雄(以下原告高橋という。)に対し金一四七万九五七五円、同和田厚(以下原告和田という。)に対し金一五四万五五五〇円、同本間米正(以下原告本間という。)に対し金七六万四一五〇円、同伊藤旦(以下原告伊藤という。)に対し金四一万三四八五円及び右各金員に対する昭和四六年一〇月三日から支払ずみまで年五分の金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告らは、いずれも東京都文京区大塚五丁目二四番八号所在のいわゆるアパート型式の建物(以下本件アパートという。)に居住していたものであるが、昭和四六年八月六日午前六時四〇分ごろ本件アパートのうち被告らのみが居住し使用していた部分にある台所(以下本件台所という。)から出火(以下本件火災という。)したため本件アパートは全焼した。右火災の原因は被告金沢すゑの(以下被告すゑのという。)が天ぷら油を入れた鍋を本件台所のガスコンロにかけて加熱したまま、二階物干場で洗濯物を干していた間に天ぷら油の温度が上昇したために発生した可燃性ガスがバーナーの火の周囲に漂って引火し、その火がさらに鍋の中の油に燃え移ったことにある。

2(一)  本件台所の天井は通常より極めて低い造りになっていて、右油鍋から天井までの距離は一メートル足らずであり火が燃え移りやすい状態にあり、その他通気が悪いなど台所としては常識上考えられない構造であった。

(二)  被告すゑのは右のような状態の台所で天ぷらを揚げていたのであるから加熱された食用油に火が入らないよう、あるいは火が入っても適切な処置をとり得るよう、その場を離れないか、やむをえず離れるときは火を消すか代りの者を立会わせるべき注意義務があるにもかかわらず、前記のように物干場に行き漫然と煮えたぎっている油鍋を加熱したまま二〇分間もの間これを放置した。また被告すゑのは出火直前の午前六時三五分ごろ被告金沢兼吉(以下被告兼吉という。)から油が煮えたぎっているから油鍋を見るよう注意されたにもかかわらずなんらの処置もとらなかった。被告すゑのの右各行為には「失火ノ責任ニ関スル法律」にいう重大な過失があった。なお「食用油を加熱すると可燃性ガスが発生し滞留する。」というような化学的な理論を知らない主婦は多いかも知れないが、加熱された食用油が「火を引く」とか「火が入いる」という現象を起すことは一般の主婦にとって常識に属する。

(三)  被告兼吉は出火直前の午前六時三五分ごろ、被告すゑのが使用していた油鍋の油が煮えたぎっている状態に気付いたが、単に被告すゑのに対して油鍋を見るよう注意したのみで、被告すゑのがその注意を無視して何らの措置も取らないのを知った後においては自らガスコンロの火を消す等の措置を講ずべき注意義務があるにもかかわらず何らの措置もとらず漫然と放置した。被告兼吉の右行為には「失火ノ責任ニ関スル法律」にいう重大な過失があった。

(四)  仮に右(二)(三)の事実が認められないとしても被告らは共同して原告中野に対し昭和四四年九月二七日、同大浦に対し昭和四五年一二月二六日、同高橋に対し同年五月七日同和田に対し同年六月二一日、同本間に対し昭和四四年六月一日、同伊藤に対し昭和四五年八月一一日それぞれ本件アパートの各一部を賃貸していたのであり、各賃貸借契約に基づく被告らの賃貸人としての債務は本件火災により履行不能となった。なお「失火ノ責任ニ関スル法律」が適用されるのは延焼家屋に対する責任を追求する場合に限られ、本件アパートの原告らの占有部分は一応特定されてはいるが、その占有部分ごとに、別個の建物とみることはできず、原告らは被告らと同一家屋内で居住していたのであって本件火災による原告らの占有部分焼失は延焼ではないので、「失火ノ責任ニ関スル法律」は適用されず、被告らの責任は重大な過失の存在する場合に限定されない。

3  本件火災により原告らは別表記載のとおり家具、衣類等の動産を失い、新居(いずれも地代家賃統制令の適用をうけない家屋であった。)を見つけてこれに入居するにあたり、礼金、仲介手数料、運送代の出費をした。また原告らは金銭には替え難い写真、記念品等を含む財産を失い、生命身体に危険が及ぶ状況に追いこまれたもので、慰藉料は各一〇万円を下らない。なお原告高橋は金四〇万円、同伊藤は金五八万一六六五円の火災保険金を受領したので右金額を控除して請求する。

4  前記被告らの2(二)(三)(四)項の各行為と3項の損害の発生との間には相当因果関係が存在する。本件のような居住を目的とするアパートの賃貸借契約において、賃貸人の責に帰すべき事由によるアパートの焼失がありそれによって賃借人の家具、衣類等に損害を与えた場合その損害はその履行不能から通常生ずべき損害というべきである。

5  よって原告らは被告ら各自に対し前記不法行為または債務不履行に基づく損害賠償として請求の趣旨記載の各金員及びこれらに対する損害発生の日の後(債務不履行については訴状送達の日の翌日)である昭和四六年一〇月三日から支払ずみまで民法所定の年五分の遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する答弁

請求原因1項の事実は認める。

2(一)項の事実は否認する。本件台所は本件アパートの他の居室と同じ構造であり、天井の高さも他の居室と同様に床上から天井まで約二五八センチメートルあり木造の日本家屋の標準規格であった。

2(二)項の事実は否認する。被告すゑのは油が直接火に接することがないよう充分注意し、また本件台所を離れる際には火勢を弱く保つようガスコンロを操作して危険の防止に留意した。被告すゑのは同兼吉から注意された事実はない。一般の普通人の常識としては加熱中の油が沸騰して泡立ち容器の外に溢流するかまたは容器の傾斜により直接油が火に接触する危険が存在するという程度の認識にとどまる(この点については被告すゑのも平常から充分注意していた。)。本件火災の原因である天ぷら油が加熱によって引火性の気体を発生するということは極めて稀なことであって、また通常人としては到底予見できないからその予見を前提とした措置を被告すゑのに期待することは無理であり、同被告が洗濯物を干すのに要した時間は二〇分程度であって、家庭の主婦がこのような短時間台所を離れることは日常家庭生活上やむをえないことであって、これをもって直ちに、重大過失ありとすることは酷に失し不当である(特に被告すゑのの場合家族全員が出勤するため毎朝短時間のうちに家事一切を切り回さなければならない事情にあった。また仮に同被告が本件台所で監視を続けていたとしても天ぷら油の気化とそれへの引火を当然に防止しえたとはいえない。)。

2(三)項の事実は否認する。被告兼吉はガスコンロに油鍋がかかっていたことさえ知らなかった。

2(四)項の事実上及び法律上の主張は争う。原告らに本件アパートを賃貸していたのは被告兼吉であり、被告すゑのと原告らとの間に契約関係は存在しなかった(被告兼吉の賃貸人としての債務が本件火災により履行不能となった事実は認める。)。本件アパートの原告ら及び被告らの占有部分はそれぞれ独立していたのであるから、別個の家屋というべく、被告らの責任は延焼家屋に対する責任と同様、「失火ノ責任ニ関スル法律」により重大な過失の存在する場合に限定される。

3項の事実は争う。原告中野、同伊藤の大部分の財産は焼失を免れ、一部が消火のため水にぬれた程度である。

4項の事実は否認する。賃貸人は賃貸家屋に対し修繕義務を負うが賃借人がその家屋に持込んだ家具や衣類に対しては善良なる管理者としての注意義務を負うものではない。原告らが礼金を支払ったとしてもこれは地代家賃統制令第一二条の二において禁止されているのであるから原告らは法律上支払義務がないにもかかわらず支払ったものであり、仮に礼金が賃料の前払的性質のものであって地代家賃統制令で授受を禁止されていないものだとしたら履行不能に基づく損害とはいえない。

三  抗弁

1  請求原因2(四)項に対して

被告兼吉の行為には賃貸人としての義務の履行不能に関し前記のとおり何ら責に帰すべき事由及び重大な過失は存在しなかった。

2  請求原因3項に対し

仮に原告らの礼金の支払が慣行的に認められているものとしてこれが原告らの損害になるとするならば、原告和田、同伊藤との間には本件アパートの賃貸借契約の条項のひとつとして期間満了後の契約更新に際し、更新料として原告和田については金一万四五〇〇円、原告伊藤については金一万八〇〇〇円を賃貸人たる被告兼吉に支払う約定があるから、右原告両名にとっては右金員の出損が予定されていたはずである。しかるに、本件火災のため右原告両名はその出損を免れたのであるから原告ら請求の損害額から右金額を控除すべきである。右の理は特約のない原告中野、同高橋についてもいえることであり相当額の更新料(少くとも賃料一ヵ月分相当―原告中野について金一万三五〇〇円、同高橋について金二万三〇〇〇円―の金額)を請求額から控除するのが相当である。原告本間とは昭和四六年五月三〇日の期間満了時に本件アパートの明渡しの特約があり原告本間の都合でその明渡を猶予していたところたまたま本件火災が発生したもので、原告本間にも明渡義務を履行しなかった過失があるので、仮に被告らに賠償責任があるとしても五〇%程度の過失相殺を行なうのが相当である。

四  抗弁に対する認否

1項の事実は否認する。

2項の事実は争う。被告ら主張の更新料の請求は地代家賃統制令に違反し、また借家法六条違反として許されず、仮に右請求が慣行的に許されるとしても現実に支払わないで済ますことは容易であって、当然に出捐すべき金員とはいえない。また賃貸借契約において期間満了時に当然に賃借家屋を明渡す旨の約定は借家法六条により無効である。

第三証拠≪省略≫

理由

一  請求原因1項の事実は当事者間に争いがない。

二  前記当事者間に争いがない事実及び≪証拠省略≫によれば以下の事実が認められる。

被告すゑのは昭和四六年八月六日の日は午前六時ごろ起床し、本件台所で朝飯を炊きながら風呂場で洗濯をし、約一五分後それらが終ってから味噌汁を作った。このころには被告兼吉も起床し、いつものとおり犬を連れて散歩に出かけていた。被告すゑのが朝飯と味噌汁を食卓のある六畳の部屋に運んで朝食の準備を終えたころ被告兼吉が散歩から帰ってきたので被告すゑのは同兼吉に食事の準備ができているので食事をするように伝えたあと被告兼吉の弁当のおかずを作ることにした。そして被告すゑのは前日材料の買物をしていなかったので、前日のえびや人参等の天ぷらの残りを揚げ直して弁当のおかずにすることにし、本件台所の冷蔵庫の上に置いてあった丸型鉄製鍋(直径約二三センチメートル、深さ約五・五センチメートルの大きさでその鍋底から約二センチメートルの高さまで豊年天ぷら油がはいっていた。)をリンナイ自動点火装置付ガステーブル(R12CE)の丸型バーナーの上にかけた。被告すゑのは当日孫二人が東京タワーに行くといっていたので早く食事させようと考えたこと、被告兼吉の出勤時刻七時が迫っていたことなどから前記油鍋の油が温まる間に洗濯物を干して早く仕事を終えようと考え、ガステーブルの自動点火装置のつまみを左に廻して点火し、少し右に戻して中火程度にしたまま炎の大きさを目で確かめることなく廊下に置いていた洗濯物を取って二階の物干し場に洗濯物を干しに行った。六時四〇分ごろ本件建物の近くの天祖神社境内でラジオ体操を終えて帰えて来た訴外中野桂子が障子越しに本件台所が異常に明かるいことに気付き原告中野にその旨伝えた。同原告が台所をのぞいたところ前記油鍋から火柱が上っているのが見えたので、「火事だ、火事だ、一一〇番しろ、一一〇番しろ」と怒鳴った。被告すゑのは階下の原告中野の叫び声を聞いて始めて油鍋が火にかけたままであることを思い出し、急いで降りてきて消火しようとしたが、火の勢いが強くて消火することができなかった。原告中野夫婦、同本間夫婦、同和田、被告兼吉等が懸命に消火に努力したが、火は台所の天井に燃え移り二階の床を焼き抜いて板張りの内壁から二階の天井裏に火がはいってしまい、その火が東及び北側へと水平に燃え拡がり、ついにその大半を焼損してしまい、内部に設置保管されていた家具、衣類等の大部分も焼失ないし消火のための冠水により使用に耐えられなくなった。

右火災の原因は被告すゑのが洗濯物を干している間に加熱された天ぷら油の温度が上昇し、そのために発生した可燃性ガスがバーナーの火の周囲に漂って引火し、その火がさらに鍋の中の油に燃え移ったことによるものである。なお、本件台所の天井の高さは床から二五八センチメートル位、右床から前記ガステーブル上面までの高さは九四センチメートル位であった。

≪証拠判断省略≫

三  原告らは右失火につき被告両名に重大な過失があったと主張するのでこの点につき判断する。

1  被告すゑのについて

「失火ノ責任ニ関スル法律」の但書に規定する重大な過失とは、通常人に要求される程度の相当な注意をしないでも、わずかの注意さえすればたやすく違法有害な結果を予見することができた場合であるのに、漫然これを見すごしたような著しい注意欠如の状態を指す(最高裁昭和三二年七月九日判決・民集一一巻七号一二〇三頁参照)のであるが、天ぷら油は煮沸した場合引火性の強い可燃性ガスを発生し、ガスバーナーの火を引火するおそれがあるので絶えず油の煮沸状況を監視し、仮に同所を離れる際は(家庭の主婦が二〇分間程度離れる場合でも)ガスバーナーの炎を消火するか、または炎を確認して炎を小さく調節するか、あるいは他に監視の者を立会わせるなどして火災の発生を未然に防止すべき注意義務があった(加熱中の油が沸騰して泡立ち容器の外に溢流するかまたは容器の傾斜により直接油が火に接触して発生する火災を未然に防止すべき注意義務にとどまらない。)のに被告すゑのは前記のとおりガスの炎の大きさを目で確認することなく、つまみの操作で中火程度にしたまま他に監視者を置く等の措置を講ずることなく漫然と本件台所を離れたのであって被告すゑのにおいてわずかな注意を払えば煮沸した天ぷら油は容易にガスバーナーの火を引火するに至るということは予見できたというべきである。食用油を加熱すると可燃性ガスが発生し滞留するというような化学的な理論を知らなくても加熱された食用油が「火を引く」とか「火が入いる」という現象を起こすことは一般の主婦においてわずかな注意を払えば予見できたというべきである。また被告両名は「被告すゑのが本件台所で監視を続けていたとしても天ぷら油の気化とそれへの引火を当然に防止しえたとはいえない。」旨主張するが、同被告が監視を続けていれば、引火するほど長時間加熱することはなかったであろうし、たとえ天ぷら油に引火したとしても直ちに消火の為の適切な措置(たとえばガスのコックを閉じる、鍋にふたをしたり、座ぶとん等をかぶせる、直ちに他人の協力を求める等の措置)をとり得ることが明らかであるから右主張は採用し難い。

したがって被告すゑのに重大な過失があったというべきである。

なお、本件台所の天井の高さは床から二五八センチメートル位あったこと前示のとおりであるけれども、それは原告すゑのに重大な過失があったとの右結論をなんら左右しないこと前示説明により明らかである。

2  被告兼吉について

原告らは、「被告兼吉は出火直前の午前六時三五分ごろ被告すゑのが使用していた油鍋の油が煮えたぎっている状態に気付いたが、被告兼吉は単に被告すゑのに油鍋を見るよう注意したのみで、被告すゑのがその注意を無視して何らの措置も取らないのを知った後においても自らも何らの措置もとらず漫然と放置した。」旨主張し、≪証拠省略≫中には「原告中野は午前六時三〇分ころ被告兼吉が同すゑのに対し『油が煮たっているから見ろよ』と注意し、被告すゑのも『ハーイ』と答えていた。」「被告兼吉は当初『被告すゑのに注意したにもかかわらずこのようなことになってしまった。』と言っていた。」旨の供述があるが、被告すゑの、同兼吉各本人尋問の結果と比較すると、いまだこれを採用することができず、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

したがって、被告兼吉に重大な過失があったとの原告らの主張は肯認することができない。

四  被告兼吉の債務不履行の責任及び抗弁1について

前記当事者間に争のない事実、≪証拠省略≫によると、被告兼吉が本件アパートの各一部(各居住部分)をそれぞれ原告ら(原告本間を除く)に賃貸しているうち、本件火災により本件アパートは全焼したことが認められるから、同被告の右原告らに対する賃貸人としての債務は本件火災により履行不能となったというべきである。

また≪証拠省略≫によると、被告兼吉は昭和四四年六月一日ころ、原告本間に対し本件アパートの一部(居住部分)を、期間同年六月一日から昭和四六年五月三〇日まで、賃料一ヶ月金一万三〇〇〇円その支払については毎月末日までに翌月分を支払う、敷金九五〇〇円の約で賃貸し、そのさい両者間において同原告は同被告に対して昭和四六年五月三〇日までに右賃借り部分を明渡す旨特約されたが、右同日経過後も同被告は同原告に対して右賃貸した部分を、賃料、差入ずみの敷金も従前のまま、引続き賃貸して、本件火災当時もその月分の賃料の前払を受けて賃貸中であったことが認められるから(右認定を覆すに足る証拠はない。)、前同様、同被告の同原告に対する賃貸人としての債務は本件火災により履行不能となったというべきである。

そして前記認定のとおり本件火災は被告兼吉の同居の妻たる被告すゑのの重大な過失により発生したものであるから右履行不能は履行補助者の過失に基づくものとして賃貸人たる被告兼吉の責に帰すべからざる事由によるものであるとはいえず、したがって、被告兼吉は右履行不能についての責任を負わなければならない。なお被告らは「本件アパートの原告らの占有部分はそれぞれ独立していたのであって延焼家屋に対する責任と同様、被告らの失火の責任は『失火ノ責任ニ関スル法律』により重大な過失の存在する場合に限定される。」旨主張する。この主張は、そもそも被告兼吉にも同法の適用があることを前提としているが、同被告は原告ら各人に対し賃貸人として本件アパートを使用収益させる債務を負担していたのでありこの債務が前記のとおり被告兼吉の責に帰すべき事由により履行不能となったのであるからこの場合債務不履行の一般原則によるのであって、「失火ノ責任ニ関スル法律」の適用はないといわなければならない(最高裁昭和三〇年三月二五日判決・民集九巻三号三八五頁参照。)。したがって、この点の被告らの主張も採用することができない。

五  原告らの損害について

1  原告中野について

≪証拠省略≫によれば本件火災のため原告中野はその所有する家具、衣類等の動産の焼失、冠水により金七〇万円相当の損害を受け(≪証拠省略≫には本件火災による動産の焼失、冠水による損害が八六万九四五〇円である旨記載されているが、右は原告中野が推測によって作成した見積額であって、これをもって直ちに現実の損害とは断定し難く、≪証拠省略≫によりその約八割をもって相当と認める。以下他の原告らについても同じ。)、また現在の新居(地代家賃統制令の適用なし。以下他の原告らについても同じ。)を訴外酒井益雄から賃借するに際し、同人に礼金五万円を不動産業者訴外加藤英典に仲介手数料金一万六〇〇〇円を支払った事実が認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

2  原告大浦について

≪証拠省略≫によれば本件火災のため原告大浦はその所有する家具、衣類等の動産の焼失により金一五〇万円相当の損害を受けた事実が認められ他に右認定を覆すに足る証拠はない。

3  原告高橋について

≪証拠省略≫によれば本件火災のため原告高橋はその所有する家具、衣類等の動産の焼失により金一〇〇万円相当の損害(≪証拠省略≫に記載された原告高橋の動産の損害の見積額から同原告が受領したとして自らその控除を主張する火災保険金四〇万円を差し引いた残額の約八割)を受け、また現在の新居を訴外山田慶策から賃借するに際し同人に礼金六万円を不動産業者訴外加藤英典に仲介手数料金二万八〇〇〇円を支払った事実が認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

4  原告和田について

≪証拠省略≫によれば本件火災のため原告和田はその所有する家具、衣類等の動産の焼失、冠水により金一一〇万円相当の損害を受け、また現在の新居を訴外土屋文雄から賃借するに際し同人に礼金三万円を不動産業者訴外中山晴夫に仲介手数料金一万二〇〇〇円を支払った事実が認められ、他に右認定を覆すに足る証拠は存在しない。

5  原告本間について

≪証拠省略≫によれば本件火災のため原告本間はその所有する家具、衣類等の動産の焼失、冠水により金五〇万円相当の損害を受け、また現在の新居を訴外矢作饒子から賃借するに際し、不動産業者訴外西牧隆夫に仲介手数料として金二万円を支払った事実が認められ、他に右認定を覆すに足る証拠は存在しない。

6  原告伊藤について

≪証拠省略≫によれば本件火災のため原告伊藤はその所有する家具、衣類等の動産の冠水により金二〇万円相当の損害(算定方法は原告高橋の場合と同じ。)を受けた事実が認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない(礼金等についてはこれを認めるに足る証拠がない。)。

7  原告らの慰藉料について

前掲各証拠によれば原告らは本件火災により金銭には替え難い写真、記念品等を含む財産を失い、生命身体に危険が及ぶ状況に追いこまれたことが認められるのであって(他に右認定を覆すに足る証拠はない。)右原告らの精神的損害を金銭的に評価すると各一〇万円が相当である。

六  被告らの損害賠償義務の範囲について

前記のとおり本件火災は被告すゑのの重大な過失により発生したものであるから同人は本件火災より生じた前記五の原告らの損害を賠償する義務があり、被告兼吉は賃貸人としてその履行不能により生じた前記五の原告らの損害を賠償する義務があり、かつ、被告らは各自その全額を賠償すべき義務を負うものといわなければならない。被告らは「賃貸人は賃貸家屋に対し修繕義務を負うが賃借人が持ち込んだ家具や衣類等に対しては善良なる管理者としての注意義務を負うものではない。」旨主張するけれども賃貸人は建物の賃貸部分を管理し、契約終了時まで賃借人に使用収益させる義務を負うのみならず、賃借人がその賃借部分を賃貸借の目的の範囲内で使用収益するために設置、保管している物を損傷して賃借人に損害を与えることのないように賃貸部分を管理する義務を負うものと解すべきであり、したがって賃貸人たる被告兼吉の損害賠償義務は原告らが賃借部分に設置、保管していた前記家具や衣類等に生じた損害についても及ぶと解するのが相当である。また被告らは「原告らが礼金を支払ったとしてもこれは地代家賃統制令第一二条の二において禁止されているのであるから原告らは法律上支払義務がないにもかかわらず支払ったものであり、仮に礼金が賃料の前払的性質のものであって地代家賃統制令で授受を禁止されていないものだとしたら履行不能に基づく損害とはいえない。」旨主張するけれども前記のとおり原告らの移転した新居はいずれも地代家賃統制令の適用のない建物であり、今日新たに家屋の賃貸借契約を締結する場合には家賃と関係なく家賃の数か月分の金員を賃借人が賃貸人に礼金として支払っているのが実情であるから、右礼金の出損は通常生ずべき損害とみるのが相当であり被告らの右主張は採用し難い。また被告らは「原告和田、同伊藤との間には賃貸借契約の条項として期間満了後の本件アパートの賃貸借契約の更新に際し更新料として原告和田については金一万四五〇〇円、同伊藤については金一万八〇〇〇円を被告兼吉に支払う約定があり、右両名は履行不能により右金員の出捐を、原告中野、同高橋も相当額の更新料の出捐を免れたのであるから原告ら請求の損害額から右各金額を控除すべきである。」旨主張するが、具体的に期間が満了した場合に、更新されるか否か、その条件の如何はその時点における双方の事情にかかわるわけであり、本件全証拠によるも原告らが将来当然に更新し、被告ら主張の更新料をその際出捐すると認めるに足る証拠はないのであるから被告らの右主張は採用し難い。また被告らは「原告本間とは昭和四六年五月三〇日の本件アパートの賃貸借契約期間満了時に居住部分を明渡す旨の契約があり原告本間の都合でその明渡の猶予をしていたところたまたま本件火災が発生したもので原告本間にも明渡義務を履行しなかった過失があるので五〇%程度の過失相殺を行なうのが相当である。」旨主張するが、原告本間が本件火災当時本件アパートの一部(居住部分)を賃借りしていたこと前認定のとおりであるから、被告らの右主張の理由のないこと明らかである。

七  結論

以上の理由によれば原告らの本訴請求は被告ら各自に対し右損害賠償請求金のうち原告中野については金八六万六〇〇〇円、同大浦については金一六〇万円、同高橋については金一一八万八〇〇〇円、同和田については金一二四万二〇〇〇円、同本間については金六二万円、同伊藤については金三〇万円とこれらに対する損害発生の日の後(被告兼吉については訴状送達の日の翌日)である昭和四六年一〇月三日から支払ずみまで民法所定の年五分の遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれらを認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条一項を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 柏原允 裁判官小倉顕、同有満俊昭等はいずれも転任につき、著名捺印することができない。裁判長裁判官 柏原允)

<以下省略>

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